EARTHLING TOUR(UK)/文:AKKOさん

97/8/3 Riverside, Newcastle-upon-Tyne

アースリング・ツアーの噂はその年の5月頃から聞こえ始めた。ボウイさんがダブリンとロンドンのクラブでリハーサルを行ない、またそれがアルバムの雰囲気そのままにリラックスしていながら非常に鋭い仕上がりだという。その後本格的にツアーが始まりボウイさんとバンドがヨーロッパを席捲しているということがさかんに伝わってきていたけれど、肝心のイギリス公演の予定がなかなか発表されなかった。唯一公示されていたのが7月20日のフェニックス・フェスティバル出演の予定だった。きっとその後国内をまわってくれるだろうと思い今か今かと詳しい情報を待っていたが結局なにごとも起こらず、フェスティバルの当日を迎えてしまった。 

その日の朝、じゃあボウイさんどうするのかなあ、これ一本でイギリス国内は終わらせてしまうんだろうか、そんなん絶対やだなあ、と思いながらストラットフォード駅からシャトルバスに揺られ会場に着いた。予約していたチケットを受け取り、さらにそのチケットと引き換えにリストバンドをはめられて、ゲートから中に入った。別稿のレポートにも書いたとおり、フェスティバルは文字どおり「お祭り」で、入り口からステージに至るまでの広大な敷地に露店や屋台が並び移動遊園地も設置されている。露店で売っているロックなTシャツとアクセサリーや、バンジージャンプのクレーンから「うっひょー!」と叫びながらびよんびよん逆さ釣りになってるロックキッズたちを眺めながらてくてく歩いていった。 

その途中でこのフェスティバルのパンフレットを買った。えーとボウイさんボウイさんはどこかな、と思って歩きながらぱらぱらめくっていくうちあるページに目が止まり、わたしはその場に棒立ちになった。それはアースリング・ツアーのイギリス公演の全頁広告だったのだ。くらくらした。アースリングのジャケ写に「DAVID BOWIE LITTLE WONDERLAND」のタイトルと会場名が入っているだけのシンプルなものだった。よく見てみると全部で5公演しかなかった。シンプルに見えたわけだ。(実際には2公演追加が出て全7公演だった。)うわ、どこのに行けるかな、最寄りのはどれかな、と会場名を追ってみると、その5公演中2番目に「Sunday 3RD AUGUST/Newcastle Riverside」の文字があった。ものすごく驚いた。 

ニューカッスルと呼ばれる土地はイギリス国内に2個所あるがそのうちのひとつはなんもない農村だから、このニューカッスルはたぶんわたしの住んでいる街の方だろう。しかしリバーサイド、と言われて思い当たるのは街のはずれにあるとても渋い、しかし決して大人気というわけではない小さなクラブである。ニューカッスルに来るアーティストはたいがい巨大なニューカッスル・アリーナか、街なかにあるもっとゴージャスなクラブを使う(例外:郊外のアイススケートリンクでやったポール・ウェラー。)現に95年12月のアウトサイド・ツアーはニューカッスル・アリーナに来たのだ。しかし今回のボウイさんはリバーサイドに来るかー。しかも2週間後だぞ。すごい。夢のようだ。やはりアースリングのボウイさんはどっか違う。と血圧200のアタマで考えながらチケット購入の詳細を読んでまた驚いた。「Tickets: Credit Card Hotline 0990321321: Available from 8pm-midnight July 20th・ 8am-8pm July 21st, or Personal callers at Box Offices from July 21st」… つまり、電話予約は7月20日、てことはそのフェスティバルの当日夜8時からと、翌日朝8時からの2日間しか受け付けない、あとは翌日21日からそれぞれの会場で購入すべしという。しかし問題は、20日の夜8時頃にはおそらくボウイさんがここのステージに立っていて我々は電話などかけられるわけがないだろうということだった(実際そうだった。)つまり、このフェスティバルにデヴィッド・ボウイを一目見ようと国中から集まってきたキッズは、ボウイ流のクールな広告戦術により突如として翌朝からのチケット争奪戦に直面させられてしまったのだった。 

その2週間後、21日の朝8時の時報とともにホテルの近くの公衆電話を占領してかけ続け入手したチケットを握りしめ、リバーサイドに向かった。(ちなみに15ポンドだった。円安の当時のレートでも3500円くらいである。)近づいていくと開演1時間以上前だったが行列がぐるっと建物をとり巻いているのが見えた。みな目を輝かせながらやがて現われるデヴィッド・ボウイについて声高にしゃべっていた。その声の中に時々中部や南部のアクセントが混じっている。おそらく2週間前まではこんなニューカッスルの小さなクラブのことなんか知りもせず自分がそこに行くことになるとは想像もしていなかった人々だ。やがて開場し中に入ると、こんな狭いフロアによくぞこれほど、というくらい人が詰まっていた。おそらくなにもかもがこのリバーサイドというクラブが初めて体験することだっただろう。 

7時の開演を待つ間、ヒマなのでビールでも飲もうということになった。クラブギグのいいところは中で酒が飲めタバコが吸える点である。もっともわたしは(またしても)イギリス人の群れをかきわけ確保した最前列でぎっちり圧縮され動けない状態だったので、列にはそれほど執着のない同行の友達が「エクスキューズミー」を連発しながら後方のバーに行ってくれた。彼がラガーを2杯抱え帰ってきたのは20分後だった。疲れていた。バーにたどり着くだけで一仕事だったと言っていた。そのうち、フェスティバルのときとは違い今回はまわりが全員まちがいなく忠実なボウイファンだから、隣りあった人同士で「いやー、まったくボウイがこの街に来るなんて信じらんないよなー」(Bowie comes to the Townが地元のアクセントだとBooie komus to the Toonと聞こえる)などと気楽な話がはじまり、みんなうきうきとおしゃべりしながらどんどん飲む。このニューカッスルという街は住民一人あたりのアルコールの消費量が群を抜いて多いことで有名なのだ。地ビールもあり、うまくて安い。しかし何故か7時を過ぎても始まる気配は一向になく、みんな暑いのと酒がまわりはじめたのとでやや不穏な空気になってきた。時々「うぉーい、Booieよう、まだかようー」なんて声が飛んでいた。 

あとでわかったのだが、この空白は、前座に予定されていた地元のバンドが突如キャンセルしたというのが真相らしい。理由は不明だが、2年前のアウトサイド@ニューカッスルアリーナのとき、モリッシーの代打で急遽出てきたやはり地元のバンドがさんざんヤジり倒されて逃げるようにステージを降りた、という話をどこかで聞きこんだのかもしれない(かわいそうだがこのバンドは本当にヒドかった。)しかし現場ではそういう情報伝達は一切なく、我々はクラブのうす暗がりの中立ちっぱなしで2時間近くビールを飲み空のステージを見つめながらひたすら待っていた。 

9時近くになるとようやくスタッフの人たちがステージに現れ楽器や器材をセッティングしはじめた。だれかけていた客席のあいだに「おお、やっと始まるぞー!」という緊張感が戻ってきた。最前列の一団がステージ上のスタッフと「おいどうしたんだよ、オレたちゃもうクソ疲れてんだよ」「いや、いろいろあってね」「Booieは本当に来るのかあ?」「いや、もう来てるよ、裏にいるよ」などと大声でしゃべっていた。日本じゃなかなか見られない光景だ。その中のひとりが、なにか字が書いてあるB4くらいのダンボールをステージ中央にガムテで貼りつけているスタッフのおじさんに目をとめ「それ何?あんた何してんの?」と訊いた。するとおじさんいわく、「いや、これ、セットリストだよ。なんかこうしとかないと忘れちゃうらしいよ」。我々は思わずげらげら笑ってしまった。こういうことにカッコつけないボウイさんはとてもカッコいいと思った。 

準備が終わり、また待たされ、「We want ya Dave!」の声が飛び交う中照明がばちりと落ち、ボウイさんが12弦ギターを抱えてひとりでステージに現れた。しかしこの夜のボウイさんはフェニックスのときとうって変わって、3つめのボタンまではずした白いシャツと黒のぶかぶかのズボンに、そのへんのディスカウントショップで1足5ポンドで売っていそうなサンダル(バックパッカーがよく履いているやつ)という、もう衣装とも呼べないようないでたちだった。ワーキング・クラスの男性がクラブで遊ぶときよくこんな格好をしている。これもボウイさんのファッションのレパートリーってことは、彼のワードローブには例の寛斎とかホワイトデュークスーツとかヒョウ柄のツナギとかの隣にこういうワーキング・クラス・ナイトライフ的洋服が吊ってあるんだろうか。なんて光景だ。と考えてしまった。 

そんな感じで、フロアの人々と大差ない格好で現れたボウイさんはにこやかにリラックスしていた。あ、いいカオだなあ、と思った。あと、こういう格好をするとわかるんだが、ものすごく細い。ウエストなんか奇跡のように細い。オープニングはフェニックスと同じく「クイックサンド」に続き「世界を売った男」だったが、3曲目がなんと「クイーン・ビッチ」だった。これはポップで大好きな曲だが生で聴ける日が来ようとは想像もしていなかったので、嬉しくなって大声で歌ってしまった。本当はこの歌詞はけっこうやばいんだが英語をカタカナで丸暗記してる日本人だからこういうことができる。 

そして6曲目の「ファッション」を歌いながら、ボウイさんはふと後ろをむきもう一枚服を取り出し肩にばっとかけてみせた。それがなんと、地元のサッカーチーム、ニューカッスルユナイテッドのユニフォームで、我々一同「わっ」とのけぞった。ステージ上のボウイさんが、こういうべたべたにローカルなネタをふってきたことにみな驚いたのだ。2年前のニューカッスル公演とはえらい違いだ。実はその95年のボウイさんの公演はニューカッスルアリーナのこけら落としで、地元のメディアがたくさん入り注目が集まっていた。しかしボウイさんはそのことにはひとことも触れず、ただいつもどおりクールなショウを敢行し去っていった。アウトサイドのショウの性格から考えるに、途中でそういう現実に引き戻されるようなことをしゃべるってことはやらなくて正解だったんじゃないかと思うけど、一部のメディアはかんかんに怒って「デヴィッド・ボウイは我々のアリーナでの最初のパフォーマーとしてひとことでも何かコメントをするべきだった、ちくしょう何様だと思ってるんだー」とかかなり感情的な調子で書いていた。ボウイさんに対する批判はいろいろあったがこういう非音楽的な視点で堂々とクリティークが書けるのはニューカッスルのローカルメディアだけに違いない。 

2年前のローカル新聞をアタマの中でめくっている間、ボウイさんはまだ「ファッション」を歌いながら今度は闘牛師のポーズでユナイテッドのユニフォームをひるがえしていた。(teenagewildlife.comのリバーサイドギグのページにその瞬間の写真が載っています。)この10日後のロンドン公演では、ボウイさんはユニオンジャックをこんな感じで使っていたそうだ。しかし人々のシンボルへの忠誠心に訴えるインパクトは、ロンドンでの英国国旗よりもニューカッスルにおけるユナイテッドのユニフォームの威力の方がはるかに大きい。ユナイテッドはニューカッスルの人口の70%を占めるワーキング・クラスの人々のライフスタイルとアイデンティティに直結している。決して大げさではなく、サッカーは彼らの生活と文化を支配しているのだ。だからニューカッスルでユナイテッドのユニフォームを着る、ということは、単なる服の趣味という言葉では片づけられない何かを意味する。それは、自分はワーキング・クラスであり、彼らと同じ抑圧された社会階級に属するものであり、彼らの疎外されるスタイルと文化を共有している、という意志の表明である。ある一枚の服はただの布っきれだが、それは人の身に纏われると言葉を語り出す。ボウイさんがユナイテッドのユニフォームを着ることで我々に発信したのは、「僕はあなた達と同じ側にいる人間だ」という、ほかでもないEarthlingというアルバムを貫いているメッセージそのものだった。

以上はずっと後にいろいろ理屈をこね回して考えてみたことである。その場では、わーびっくりした、でもまあいいか、デヴィッド・ボウイまでユナイテッドのユニフォーム着てるなんてすげーじゃないか、と北イングランド流のアバウトさでみんな納得しお祭り騒ぎの大喝采だった。 

しかしこのアトホームなクラブシンガーのような人が、本当に2週間前フェニックスで月光を背負って立ち2万の観衆を支配したあの人なんだろうか。ボウイさんは変化の人だってことはよくわかってるんだけどこうして短期間に両極のスタイルを目の前で再現されるとやはり驚く。それからわたしもフェニックスを目撃するためには、地下鉄とBRの急行とバスを乗り継いでこの国をほとんど横断し、ホテルに泊まり、とボー大な時間と労力を消費した。しかし今回は、ジーンズのポケットに適当な小銭とタバコとチケットをねじこみ、夕方手ぶらで家を出て、まるで近くのパブで待ち合わせてた友達としゃべりに行くような感覚でぺたぺた歩いてやって来たのだ。戦メリ以降のボウイファンで、その頃のスタジアムロッカーとしてのボウイさんのイメージをインプリントされているわたしには、その事実がほとんど信じられない。ボウイさんは米粒みたいに見えて当たり前、遠くから拝見させていただくだけでもありがたいお話だと思っていたのだ。 

しかしそのボウイ・ザ・スーパースター的イメージが刷りこまれているとときどき事実を見誤る。ちょっと前までわたしはRCA時代のボウイさんについても、多少スケールは小さいが、そういうスーパーなミュージシャンだという漠然としたイメージを持っていた。それが間違いだったということに気がついたのは「70年代の僕は所詮メジャーなカルトにすぎなかった」という彼自身の言葉を聞いたときだ。 

ひょっとしたらボウイさん本人ですら見誤っていたのかもしれない。80年代からの何年間か、やっぱり聞き手の期待を満足させてみようとしたり、いやオレはそれに絶対迎合せず自分の道を行くのだとしたりして両極を揺れ動いていたけど、いずれにせよ彼はなんか肩に力が入っていた。それがどうだ、1997年のボウイ・ジ・アースリングはその両極のスタイルをいともかろやかに使い分けている。今回キャパ500人のクラブの5m四方くらいのステージ上でサンダル履きで演奏してても、テンションは2週間前に2万の観客の前にいたときと変わらないのだ。どうせ国内のメディアがレビューを書くのは10日後のロンドン公演だから、こんな北部の地方都市公演はリハーサルがわりに消費され得たのに、汗びっしょりでシャツを肌に貼りつかせ(大変よろしい)、Stay, Or do something! とステージに跪き叫んでいるボウイさんはマジである。ちょうど10年前のCNNの一場面を思い出した。グラス・スパイダー・ツアーの記者会見もNYのこんなクラブでライブを兼ね行われた。しかしその彼はなんか「こういうことも僕にはできるんだ」ということを見せようとしていてかえって痛々しかった。しかしその時のボウイさんとは目の輝きが違う。レッツ・ダンスがインプリントされてるみなさん、それから70年代の記憶を必要以上に美化しているみなさん、実は僕はこういう人間でこういうことをやりたかったんです、という迷いのないボウイさんの主張がびしびしと伝わってくる。我々はボウイさんの揺るぎない自信を共有している。その安心感は、今までに感じたことのなかった感覚だった。 

アースリングからの曲が何曲か続いたあと、ボウイさんはひと呼吸ついてむき直り、「次の曲を、昨日亡くなったウィリアム・バロウズに捧げます」と前置きして 「スケアリー・モンスターズ」を始めた。この作家の死はその日大きく報道されていた。ボウイさんの書く歌詞が時々ひどく難解なのはバロウズにも責任がある。そのよくわからない歌詞の曲のひとつ「ハロー・スペースボーイ」は、アルバムを聴いたときにはあまり好きになれなかったが、ライブで聴くとバスドラが鳩尾のあたりを直撃して大変気持ちがいい。ペット・ショップ・ボーイズのバージョンしか知らない人にこれを体験させてあげたい。それから「リトル・ワンダー」はまことに最後にふさわしい曲で、「Sending me, So far away, So so far away..」が延々繰り返されボウイさんが両手をゆっくりと振る。すると皆もふらふらと魔法にかかったかのように両手を上げて同じリズムで揺れだすのだ。その手はそのまま、ボウイさんが「.. You little wonder, little wonder you! Thank you, bye-byyee!」とすぱっと引っ込んでしまうと大拍手につながる。 

魔法は、アンコールでゲイル(ボウイさんは前述したように普通の格好だったが彼女はきちんと角とシッポを生やしていた)がローリー・アンダーソンのO Supermanを歌ったときもう一度起こった。二人は直立不動でマイクの前に立ち、ボウイさんがゲイルのメロディーの4度下にコーラスをつけて美しいハーモニーを聴かせるのだが、時々二人でぴったりとシンクロナイズした、パントマイムのような手と腕の動きが入るのだ。二人の動きが波動のようにフロアの隅々まで伝わっていく。後ろを振り返ると、フロアからも何本も腕が差し出されゆらりゆらりと同じ軌跡を描いているのが見えた。何かが共鳴しているようだった。それはとてもとてもとても印象的な光景だった。 

すべて終了した後、わたしは明るくなり人が引いていくフロアに立ちつくしていた。床はこぼれたビールと踏み割られたプラスチックのグラスが散らばりひどい有様だった。友達「帰ろうよ」わたし「アタシ帰りたくない!」「じゃどうすんの」「もうあたしゃ今晩ここに寝る!今から自分のきったない部屋に帰ってこの余韻をパーにするなんて絶対いやだ!!」「あに言ってんだよ、帰るよ!もうパブも閉まってるんだし帰るしかないだろ」とわたしは後ろ髪引っぱられながらリバーサイドを出た。8月とはいえ北部は夜になると冷える。おまけにわたしはぎゅうぎゅう絞り上げられてTシャツが汗びっしょりだった(ビールもかけられてた)。そこに海賊ツアーTシャツ売りのおじさんが「ハーイ、もう残りこれだけだよ、安くしとくよ5ポンドだよ」と寄ってきたのですかさず1枚買い、友達に見張ってもらいながら路地で着替えた。「どう?」「はは、いいね。…あのさあ、僕思ったんだけど」「何?」「君って、ほんっとぉーに、デヴィッド・ボウイ好きなんだね。珍しい日本人だよね。後ろから見てたらネイティブより盛り上がって踊ってたよ」「わはははは、今ごろ気がついたか。確かにあんまりそういう日本人いないけど、でもあたしゃボウイのおかげでかなり面白い人生送らせてもらってるよ」「そーだろーな。それに、君はこういうふうにボウイのいいライブをここイギリスで見れて、日本一ラッキーな日本人のデヴィッド・ボウイ・ファンだな」 

わたしはこの言葉に深く感動した。思わずその場に土下座して、その友達とわたしがニューカッスルにいることに関わるすべての人々に感謝を捧げたくなった。十数年間しつこくボウイファンをやり続けた甲斐があったってもんだ。そしてこの日、この強烈なアースリング・ギグを体験してしまったわたしは死ぬまでボウイファンかもしれない。60とか70になってうるさがるマゴをつかまえ「いーいよくお聞き、おばーちゃんはアースリング・ツアーを目撃した数すくない日本人のうちの一人なんだよ。それはニューカッスルというワイルドな街でのワイルドなギグでなあ」「まーた始まったよ、もう1万回くらい聞いたよ」「デヴィッド・ボウイがサンダル履きでのう。ゲイルはシッポが生えていてのう。マイク・ガーソンはじじいになっていたが『フェイム』でものすごいソロをバリバリに弾いてのう、最後に15連符のアルペジオを低音部から高音部に弾いていったらやがて鍵盤がなくなり椅子から落ちたんじゃ」「誰のことだか全然わかんねーよ」とか語ってあげるのが今のとこの夢だ。